“ありのままの価値” (あおばタイムズ 70)

  いつもカウンセリングをしていて悩ましいと思うのは、多くの方々が自分自身について自信を失くしてしまっている―ということです。かく言う私自身でさえ、自分に対する自信を失いかけることがあります。みんながもっと、自分というものに自信を持って生きていくことができたら…きっともっと幸せな社会が実現するのではないかと思うのですが。そもそも人は誰でも、その新しい生命の誕生を無条件に祝福されてこの世にやって来る、というのが古い時代からの自然なあり方だったのではないかと思います。生まれてからどのように成長していくか、どんな人間に育っていくかということは抜きにして、命あるものとして生を受けた、そのこと自体が祝福されるべきものであったと思います。しかし人間の知性(マインド)が発達するにつれ、生命の輝きそのものを称えるよりも、どんな人間であるか?ということに関心が移ってしまったようです。「どんな学校へ行ったのか?」「どんな職業に就いているのか?」「どんな肩書きを持っているのか?」「どれぐらい給料をもらっているのか?」「他の人からどんな評価を受けているのか?」…ある意味、その人そのものというより、貼り付けられたラベルのようなものの方が、大手を振って世の中を闊歩するようになってしまいました。そしてそのことで、多かれ少なかれ誰もが苦しんでいるのではないでしょうか。他人のことをあれこれ評価することが、知らないうちに自分自身をも苦しめることにつながってしまってはいないでしょうか。
 カウンセリングには様々な悩みを持つ方が訪れますが、その悩みの一つ一つはご本人にとって、かけがえのない大切なものです。ですからそれを大切に扱いながらご一緒に見ていくことを通じて、誰にでも共通するような苦しみが少しでも癒え、自分自身に対する自信を取り戻していただけたら…と思っています。おそらく、一人の人間が癒されるということは、社会全体が癒されることへ通じるのだと思います。

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深遠なる無意識 (あおばタイムズ 66)

 そもそも私がカウンセリングの世界を覗いてみたいと思ったきっかけは、ユングの言う”無意識”の世界に興味を持ったことでした。
 ユングの著作を通じて得られたイメージは、すべての人間は深いところにある”無意識”でつながっている―というものでした。竹林に生えている竹というのは、土の上に見える部分では一本一本が分かれて生えていますが、土の中を見ると地下茎によってすべてがつながっています。人間も同じようなもので、私たち自身はそれぞれが別個に意識をもって生活していると信じていますが、じつは深いところにある潜在意識や、それよりももっと深いところにある無意識の世界ではつながっていて、融合しているというのがユングの見解です。例えば地球上の全く別の場所に住んでいる二人の人間が、ほとんど同時期にインスピレーションを受けて同じ内容の発見や発明をするというのも、その表れだと言えそうです。
 私たちは様々な望みを持って生きていますが、いくら願ってもなかなか叶わない望みというのもあります。これは、私たちがたとえ表層にある意識の部分でいくら願ったとしても、深いところにある潜在意識の部分でそれを信じることができなければ、無意識の世界に働きかけることは難しい(=宇宙と一体化できない?)ということなのかもしれません。例えば、何かに取り組む時には、時間をかけてコツコツと続けていく―というような経験が、潜在意識における確信を生み、それが無意識の世界に働きかけて望みを実現させる力になるのではないか…とも思えるのです。(宇宙のしくみについては、医学博士であるディーパック・チョプラ先生の著作が参考になるかと思います。)ちなみにクリスマス・カラーのレッド/グリーンは、表層の意識の部分では”情熱・勇気・行動力”を表すレッド、無意識の部分では”自分の内側にある真実”を表すグリーンを示すとも言えます。みなさんが本当の『自分自身』を生きられますよう~メリー・クリスマス!!

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“優しさの波紋” (あおばタイムズ 61)

 死んでしまった後はどうなるかということについて、考えたことはありますか?―それには大きく分けると二つの考え方があると思います。一つは、死んでしまったら何も残らない。今ある意識はすべてどこかへ消えてなくなってしまう…というもの。もう一つは、死んだ後も意識は何らかのかたちで残る。あるいは魂(意識)は永遠で、たとえかたちは変わってもずっと生きつづける…というものです。―『あなたは、どちらを信じますか?』
 いわゆる近代科学が優勢な時代になってからというもの、「死後の世界などありはしない」、「死んだらすべてがおしまいだ」という考え方が大勢を占めてきました。ですから多くの人々が「生きているうちにどんな手段を使ってでもお金や権力を手にして、自分がいい思いをしさえすればいい」という生き方を目指すようになってしまったのです。しかしこのような時代が訪れる前は、古くから“魂は輪廻転生する”…つまり人間は何回も生まれ変わるということが世界各地の伝承(言い伝え)からも一般的に信じられていました。人は生きているうちに悪いことをすればその業(カルマ)を次に生まれてくる時にまで持ち越してしまうので、悪いことをすればたとえ死んだ後でも自分の身にその結果が及ぶ―というのが長い間の認識だったようです。
 幸か不幸か…私たちにとって、死後の世界が本当はどうなっているのかを知ることは困難です。その代わり私たちは、死後の世界がどうなっているのかをそれぞれの自由なおもいでイメージすることができます。「死後の世界はある」と信じている人にとって、人間の死後も魂は生きつづけるでしょうし、「死後の世界なんてない」と思っている人にとって、人間は死んだら終わりのはずです。しかし私は、“どうせ二つしか選択肢がないのなら、『死後の世界はある』と考えたほうが、自分も周囲の人々も幸せになるのではないか?”―と思っています。仮に死んだ後でも魂は生き続けるとしたら…あなたが誰に対して優しく接したとしても、その人との関係はあなたが(あるいは相手の方が)この世で死んでしまった後にもずっと続くことになります。それはつまり、お互いの優しい気持ちが未来永劫にわたって、エネルギーの波紋を起こしつづける…ということなのです。人が幸せを感じる時には、実際にはエネルギー交換のようなことが行われていると思います。一生懸命に作ってくれた美味しい料理をいただくことで幸せを感じたり、相手が自分のことを優しく思いやってくれることに対して幸せを感じたり…。ですから相手が誰であってもその魂を永遠のものと考え、優しさと思いやりを持って接することは、自分と相手の両方を幸せにしてくれるのではないでしょうか。

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“はじめの一歩” (あおばタイムズ 60)

 カウンセリングへおみえになった方々のお話を聞いてみますと、予約を申し込むまでにかなり迷ったという方がほとんどと言っていいぐらいです。これが一昔前でしたら、カウンセリングを受けることが何か特別な事のように思われるケースも多かったかと思いますが、現在では、学校や職場、社会全体においてもカウンセリングへの理解が深まっています。たとえカウンセリングを受けようとするご本人に抵抗があるような場合でも、じつは周りの方々やご家族の方はそれをごく普通のこととして受け止めているケースが多いようです。ですからあまり無理をなさらず、悩みが解消されずに苦しんでいる方には最初の一歩を踏み出していただきたいと思っています。
核家族の中にあって、一人一人が仕事や家事といった大役を担い、あるいは仕事に就くべきだとのプレッシャーを受け、子供たちはそれぞれが将来を期待される…このような心の余裕が失われてしまいやすい現代社会にあっては、誰でもごく普通にカウンセリングを受けられることが大きな役割を果たすと信じています。ほんとうは、家族や友人といった身近にいる人間同士が日々起こるさまざまな出来事について語り合うことができるのが理想だと思うのですが、少なくとも今の時点では、カウンセリングやいわゆるスピリチュアルなものの見方が徐々に広がっていくことを通じて、そのような社会へと近づけていく営みが必要だと感じています。
二十世紀から二十一世紀の初頭にかけて、世の中は大いに便利になりましたが…どこかに大切なものを置き忘れてきてしまった気がしてなりません。たとえば、戦後の高度経済成長期の日本社会は今よりも未来への希望に溢れていたように言われますが、それはきっと戦中・戦後の時代を生きた人々が苦しかった経験を生かしながら、まごころと思いやりを持って社会を牽引していたからにちがいないと思っています。つまりとても苦しい時代を生き抜いたからこそ、そのあとに大きなよろこびを実現し感じることができたのでしょう。今の社会ではついつい手軽な楽しさや物理的な成功を求めてしまいがちですが、ほんとうの深いよろこびは、苦しみながらも生き甲斐を感じつつ、それなりの時間をかけてこそ得ることができるのかもしれません。
つまずいた時こそ、飛躍へのチャンスだと思います。「ピンチの後にチャンスあり」とよく言いますが、『ピンチこそチャンスである』と言った方がむしろ正しいのではないでしょうか。大事なことは、今ある状況を実際に切り開くことができるのは周りにいる人々ではなく、あくまでも自分自身であるということだと思います。ただ、周囲の人々にも手助けをすることはできます。どうしたらよいのだろう…と悩み続けている方々には、ぜひとも何らかのかたちで『はじめの一歩』を踏み出していただきたいと願っています。

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“光輝く存在” (あおばタイムズ 57)

 今年春の全国高校野球選手権大会の入場行進曲に選ばれたのは、中島みゆきさんが作詞・作曲し、TOKIOが昨年末の紅白歌合戦でも歌った「宙船(そらふね)」でした。この曲のテーマを一言で言うと、“人生の舵取りは、自らの手で行え。”ということだと思います。
 一九九三年にノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者―ネルソン・マンデラ氏が三十年近くにも及ぶ収監生活の後に語った言葉がありますが、それもやはり同じことを言っているのだと思います。~“私たちが最も怖れているのは、私たちが無力であるということではありません。私たちが最も怖れているのは、私たち一人一人が想像する以上の力を持っているということなのです。私たちを最も驚愕させるのは私たちの闇の部分ではなく、私たちの光の部分なのです。私たちは自分自身に問いかけます―私が光り輝き、華麗で、才能に溢れ、信じられないような人間であることなんてあるのだろうかと。しかし、そうでないあなたは一体何者なのでしょうか?…あなたは神の子なのです。あなたがほんとうの実力を発揮しないことは、世界のためにはなりません。あなたの周囲にいる人間が不安がらないように縮こまっていようとすることは、決して賢明なやり方ではありません。私たちは子どもたちと同じように、全員が光り輝くためだけに存在しているのです。私たちは、私たちの内側にある神の栄光を現実世界へと表現するために生まれてきたのです。そして私たちの何人かがそのような力を持っているのではなく、私たち全てがその力を持っているのです。私たちが自分自身に光り輝くことを許せば、知らず知らずのうちに他の人にもそれを許すことになります。私たちが自分自身の怖れから解放される時、私たちの存在は無意識のうちに他の人々をも自由にしているのです。”(有馬・訳)
 現代に伝わるキリスト教をはじめとする多くの宗教は、「自分を犠牲にしてでも、他人のためにする」ことをしばしば教えています。しかし最近になって、そのような教えは最初からあったものではなく、宗教の名のもとに一般民衆を力無き者として従わせようとする権力者たちの手によって書き換えられた、歪められた教えの姿であったことがわかってきました。…もとからあった教えは、ネルソン・マンデラ氏のスピーチのように、“私たち一人一人はすばらしい力を持っていて、それをいかんなく発揮することがひいては他の人々の幸福にもつながる。”―ということだったようです。ですからカウンセリングを通じて社会的な偏見や世間体…といったとらわれの枠を外し、ぜひお一人お一人にもっともっと光り輝いてほしいと願っています。

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闇から光へ~

最近、“闇と光~”に関する話題をとてもよく目にします。

なぜ「闇」が先にくるかというと、それには理由があります。

闇(=影)を見る(=意識する)ことは、自分の背後には光があたっているという事実を示しているからです。

つまり、“光”があることによって、「闇(=影)」が浮かびあがっているということです。
光がないのに、闇だけが存在するということはありえません。

まだ光があたっていない(と、少なくとも自分の目からはそのようにみえる)自分の「影」の部分を見ることには勇気が要ります。
恐怖心が湧き起こって来たり、悲しみの感情で覆いつくされてしまうように感じられることもあるでしょう。

…でもそれは、“光”があたっている証拠なのです。
 恐怖心が強ければ強いほど、悲しみが大きければ多いほど、「闇(=影)」そのものが大きいわけでは決してなく、それだけ強い“光”があたっていることを示しています。

ですから、自分の「影」をよくよく見つめることでその正体が明らかになった時、あなたは全き“光”に包まれるはずです。
それには時間がかかるかもしれませんし、それまでには感情の大波をいくつも経験する『必要』があるかもしれません。

…でもそれは、“光”に浴するための道なのです!
~あなたのために用意された『道』なのです!!


今の時期、多くの方々がご自分の「闇」に直面させられています。
でもそれは、ほんとうの“産みの苦しみ”…


きょうもたらされたのがこのボトルだったのは象徴的でした~
http://www.aura-soma.co.jp/aura/b074.htm

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“アラスカの太陽” (あおばタイムズ 54)

 写真家・星野道夫さんは、その人生の後半二十年近くをアラスカの地で過ごしました。四十四歳の時、テントで就寝中にヒグマに襲われてお亡くなりになったのですが、星野さんはアラスカの自然や動物たち、そしてそこで暮らす人々の生活を『フル・ライフ』という言葉を使って表現されています。~その言葉はおそらく、“精一杯、命を燃やし尽くすことなしには生き抜くことができない”… といった意味ではないかと思っています。
 一月のこの時期、かつて星野さんが住んでいたアラスカのフェアバンクスという街では太陽が十時すぎに少しだけ上がって、十四時前にはもう沈んでしまいます。それも地平線からちょっと顔を出す程度で、朝日と夕日が同じような感じですぐに沈んでしまうそうです。そんなアラスカに住む人々は、いつも太陽が描く弧の大きさを気にかけているといいます。しかし日本に住んでいる私たちは、おそらくそこまで太陽のことを気にかけてはいないでしょう。それが幸せなことなのか?、それとも不幸せなことなのか?…アラスカに住む人々にとって、太陽は輝く宝石にもまして貴重でありがたい存在にちがいありません。しかし私たち日本人にとっては、それがただあたりまえの存在として感じられることが多いのです。
 美輪明宏さんがしばしば、『正負の法則』という言葉をお使いになります。それは多彩な意味を含む言葉ですが、“苦労した分だけ、報われる喜びがある”―という意味もあると思います。水道の蛇口をひねればすぐに出てくる水の味と、山道を汗をかきかき歩いてようやく出会った清水の味とは、格段に違います。そう考えていると、少なくとも「幸せとは苦労が少なくてラクチンなこと。苦労が多いのは不幸せなこと。」―という定義はあたらないように思えてきます。
 星野さんの言葉に耳を傾けていますと、アラスカのような自然の中で生活してみたくなることがあります。しかし星野さんはただ自然界とそこに暮らす人々・動物たちの真実、そしてそれに関してご自分が感じたことを私たちに伝えてくださるだけで、決して私たちに「あなたもアラスカで暮らそうよ」とは言いません。きっとそれは一人一人が体感すべき各々のテーマであることを、星野さんはよくわかっていらっしゃるからだと思います。
 とてもシンプルな言葉の数々ですが、今、星野道夫さんの声が私の心に響いてきます。

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“こころへの贈り物~宙船(そらふね)”

 中島みゆきさんの書いた『宙船(そらふね)』という歌があります。
 そのなかで彼女が繰り返し唱っている言葉を、あなたに贈ります。

“その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな”


~そして『宙船』の歌詞にある言霊(ことだま)達を、2007年を迎えるにあたっての私から皆さんのこころへの贈り物にしたいと思います。

“その船は今どこに ふらふらと浮かんでいるのか
 その船は今どこで ボロボロで進んでいるのか
 流されまいと逆らいながら
 船は挑み 船は傷み…”

 カウンセリングや心療内科を受けようと思っていらっしゃる方の中には、今自分はまるでそのような状況に置かれていると考えていらっしゃる方も多いことと思います。
 そんな方々に私が伝えたい事をそのまま、みゆきさんは美しい言霊にのせて伝えてくださっています。

“その船は自らを宙船(そらふね)と 忘れているのか
 その船は舞い上がるその時を 忘れているのか
 地平の果て 水平の果て
 そこが船の離陸地点
 すべての港が灯りを消して黙り込んでも

 その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな”

 ところで、自らの手でオールをしかと握り、宙船を浮上させていくためにはいったいどうしたらよいのでしょうか?

 じつは「八方塞がりで今の私にはどうすることもできない!」と考えている方にさえ、日々の生活の中にはいくつもの小さな選択の自由が残されています。
 あなたがこの文章を読んで、「そんなこと、とても私にはできない」―と思うか、「そうか。…もしかしたら私にもできるかもしれない」―と思うか。それはある意味、あなた自身によるひとつの選択です。
 あなたには今この瞬間、まちがいなくそれを選択する自由があります。

 タレントの石田純一さんがこんなことを言っていました。
「ものごとを達成できる人は、“できる方法を考える”。
 ものごとが達成できない人は、“できない理由を探す”。」
…名言だと思います。

“何の試験の時間なんだ 何を裁く秤(はかり)なんだ
 何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ
 何の試験の時間なんだ 何を裁く秤なんだ
 何を狙って付き合うんだ 何が船を動かすんだ”

 いま自分に何が訪れているのか?
 いま自分は何をしようとしているのか?
 いまの自分にとって、何が生命を燃やす原動力となりうるのか?
―いくつもの厳しい課題があなたの胸元に突きつけられていますが、それはとりもなおさず「あなたは今、自分で自分の人生を決める権利があります!」と言われていることと同じなのです。

 日本人F1レーサーへの道を最初に切り拓いた中嶋悟さんが、現役時代にこんなことをおっしゃっていました。
「僕はF1に乗る時、ひとつでも多くのことを“意識して”おこなうように努力しています。」
 上の歌詞を耳にした時、私は中嶋さんの言葉を思い出していました。

 私たちの日常生活における瞬間瞬間において、まるでこの歌詞にあるように私たちはいつも試されているのです。たとえば…
 この文章を読み終えて、次の情報を探すもよし。
 気になった箇所を読み返すもよし。
 静かにパソコンを閉じて余韻に浸るもよし。
~あなたには今、数え切れないほどの選択肢が用意されています。

 そしてより多くのことを“意識して”おこなうことができる人こそ、他の人には理解できない高みへと昇ってゆくことができるのだと思います。

―その時、宙船は自らの力で舞い上がってゆくことでしょう!!


“その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな”

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“無趣味のススメ” (あおばタイムズ 51)

 私にはこれといった趣味がありません。ですから新しい職場に移る時など、履歴書の“趣味・特技”の欄にどう書くかがいつも悩みのタネでした。ところで辞書で引いてみますと、趣味とは「専門としてではなく、楽しみにすること。余技。ホビー。」とあります。…これで納得しました!やはり、私は趣味を持っていないというのが正解のようです。
 何か趣味を持ちたいと思っている方は多いようで、そのためにあれこれ習い事を変えてみたり、一人で何かを始めてみるがなかなか続かない―という話もよく聞きます。じつは以前の私もそんな感じでした。しかし今の自分の生活を省みますと、仕事をしながら家では共働きの妻と家事を分担し、共に一歳の息子の面倒をみる…というわけで「何か趣味を~」と言っている時間も余裕もないのが実状です。それでも最近ではそんな自分の生活に慣れ、楽しめる余裕も出てきました。
 ある時気づいたのですが、私のしているカウンセリングもこうやって文章を書くのも、息子の面倒を見るのも家事をすることも、私にとってはすべて「仕事」とも「趣味」とも割り切ることのできない大切な『生活』の一部だったのです。そのどれが欠けても私という存在は成り立ちませんし、逆にそれらの一つ一つは私という存在でつながっていて、バラバラに切り離して考えることができないものなのです。
 ことに男性という人種はしばしば「仕事」や「趣味」を言い訳にして大事な『生活』の場から顔を背けてしまうことが多いように思われるのですが、敢えてそこに自らの存在を賭けて関わっていくことによって、ひょっとすると趣味よりも大切な何かが見つかるような気がします。

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“教育は共育” (あおばタイムズ 49)

 一度は教師を志したこともある私は、今でも「先生」というのは最も尊敬を受けるべき職業の一つだと思っています。私は今、カウンセリングを通じて教育の一端でも担うことができればと考えています。
 最近“教育”という言葉は、多くの場合「教え、育てる」という義務的な意味で用いられているように感じます。しかし“教育”の本質は、「教えられながら共に育んでゆく」ことではないかと実感しつつあります。
 昨年の春に父親となった私は、まるで第二の人生を生かされているような心持ちでいます。一歳半になる息子を見ながら感じるのは、これから親である私達が次々と色々な事を教えていかなければならないということよりも、彼の中には既に数えきれないほどの宝物が備えられていて、それが月日とともに少しずつ開花していっているという印象です。初めて体験する世界や人々との出会い―それに呼応して自然に多くの才能が花開いてゆく様を目のあたりにするのは、喜びと発見に溢れる日々です。「なるほど!教育というのは子から教えられ、自ずとあたたかいまなざしになり、それによって互いの関係が育まれていくことを言うんだなぁ…」
 植物を育てる時、「あっちへ伸びろ」、「こっちへ伸びろ」と指示する方はあまりいないと思います。ただ十分な日光ときれいな水、それに大きく根を張ることのできるやさしい土。そういった環境さえ整えてあげれば、すくすくと成長していって美しい花を咲かせることでしょう。

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“かもめ食堂” (あおばタイムズ 47)

 『かもめ食堂』という映画を見ました。見終わった後に気持ちがほっこりと温まる、私たちを目まぐるしい日常から引き離させてくれるような映画です。森と湖・ムーミンでも知られるフィンランドのゆるやかな時の流れの中で、人の生き方についても考えさせられました。
 フィンランドにある「かもめ食堂」の主人、小林聡美さん演じるサチエは自分の信じる生き方の軸が“ぶれない”人。けれど、そこに柔軟性を失ってしまうような硬さや他人を拒絶する頑迷さはありません。周囲の人々を受け入れつつ、それでも自分自身が大切にしているもの・なすべきことは疎かにしない。たとえお客が一人も来なくても、真っ白な大きいふきんでお店のテーブルや食器を拭き続け、いつでもお客さんを迎え入れる準備をしていました。そんな日々は、まるで自分自身と静かに対話しているようにも見えます。
 この映画に悪い人は一人も出てきません。あるフィンランド人の身の上話を聞いた日本女性がこう言います。―「人にはそれぞれ、事情があるのねぇ…」。かもめ食堂は、それぞれの人生模様を抱えた人々を温かく迎え入れてくれます。主人公のサチエがそんなお客さん達にかける“いらっしゃい!”の声。それは自分の生きる道を信じている人だからこそもっている、凛とした優しさに満ち溢れているのです。

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“三十七番” (あおばタイムズ 44)

 カウンセリングルームが入っているビルの一階に中華のお店があります。「ラーメン37」の赤い大きな看板が遠くからでも良く見える、中華の定食や麺類が何でも美味しい地元で人気のお店です。ここのラーメンを食べるためにわざわざ遠方からみえる方もいると聞いたことがありますが、いつもボリューム満点のメニューをいただいていて感心するのはご主人の誠意ある仕事ぶりです。
 初めてお店を訪れた頃、メニューがとても豊富なので「どれが美味しいのかな?…」と他のお客さんを観察していたのですが、それぞれ注文するものが違うようです。それだけにお客さんが多くなるとたった一人で調理しているご主人は息つく暇もなくなるわけですが、次々と注文された品を手際よく作り出す姿には惚れ惚れしてしまいます。そこに毎日同じ仕事を続けてきた人の職人魂が感じられるからです。
 ある朝お店を覗くと、黙々と大量の材料の仕込みをしているご主人の姿がありました。あの手際の良さの秘密は、時間をかけた入念な下準備にあったのです。力強い炎の前で料理を一気呵成に作りあげる姿と、包丁で数多くの材料をコツコツと切り揃える姿。そのどちらが欠けても、ご主人の作品は完成しないのです。
 昼休みや一日の仕事の終わりにこの店を訪れる人は皆、ご主人の作ってくれる美味しい料理を楽しみにしています。私もご主人の作る食事からいつも、午後の仕事へ向けて「がんばるぞ」というパワーをもらっています。

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“自分を表現する” (あおばタイムズ 41)

 ニューヨーク在住の世界的に有名な日本画家・千住博さんは『千住博の美術の授業 絵を描く喜び』(光文社新書)のなかで、「夢中になって描くだけなら、山のように描いてそれを押し入れにしまってすませばそれでおしまい。あえていえば、それは祈りのようなものです。でもそうではなくて、今ここで言いたいことは、人に見せるということ。見せてはじめてコミュニケーションが成立します。…どのくらい人間性を訴えられるか。人に伝えたいという心。繰り返しますが、これが大変重要なのです。」―と言っておられます。多くの人が自分を表現しようとする今の時代、示唆に富む言葉ではないでしょうか。
 インターネット上のカウンセリング検索サイト「こころ相談.com」に掲載された私のコラムが、他のカウンセラーの方々のコラムと合わせて一冊の本になることになりました。九月頃には出版予定なので、原稿の最終チェックをすることになったのです。
 カウンセリングルームを開設した頃から「あおばタイムズ」紙に文章を載せるようになったのですが、最初のうちは苦労の連続でした。たとえば日記のような自分のためだけに書く文章と、他の大勢の方に読んでもらうための文章を書くことが、これほどまでにちがった気の使い方を必要とする作業だとは思っていませんでした。
 自分の書いた文章が本になることになって、私がこれまで以上に感じているのは“責任”のようなものです。他の方がこれを読んで何かを感じてくださるなら、私が伝えたいことを正しく表現しなければならない。…自分の原稿を読みながら推敲を繰り返し、途中で「もういいか―」と投げ出したくなる衝動を抑えつつ、締め切りまでの一週間は自分自身と闘いながら何とか打ち克てたという満足感がありました。
 千住氏は言います。「何をやろうとしているのか、ということをいつも心に留めていないと、あらぬ方向に行ってしまいます。どこでもないところに辿り着いてしまうのです。何をやりたいかということをしっかりと問いかけながら制作する姿勢が必要なのです。」

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“まともであること” (あおばタイムズ 31)

 カウンセリングという仕事をしていますと、常に人生勉強を続けていなければならないと感じさせられます。
 私が本を読みながら初めて人間として常識的であること、「まとも」であることの大切さを意識させられたのは、中学か高校の頃に読んだビートたけしさんの『午前三時二十五分』(太田出版)という一冊でした。当時漫才ブームで“ツービート”として人気だったたけしさんですが、深夜の人気ラジオ番組オールナイト・ニッポンでの肉声に触れてその人間性に信頼感を持ち、ぜひこんな人の書く文章を読んでみたいと思ったのがきっかけでした。
 最近の私は、池波正太郎さんの『男の作法』(新潮文庫)や島田紳助・松本人志さんの『哲学』(幻冬舎文庫)といった名著に出会い、ともに生き方について考えさせてくれる良き指針として感銘を受けています。とくに『男の作法』は口述による薄い文庫本ですが、現代人が生きる基本を再確認するのに格好の一冊といえるでしょう。
 これらの本を書いた顔ぶれは、きっと誰もが「成功している」と思える方ばかりでしょうが、私たちはついそういった人々の日の当たる部分ばかりを見てしまいがちです。ところが本を通じて各人の言葉に触れると、いかに人の目に見えないところで日々努力されているか、例外なしに自分本位ではなく周囲の人々への思いやりや気くばりを忘れない人々であるかがよく分かってきます。
 最近明るみに出たライブドア事件を見ていても思うのですが、人間が本当の意味で成功しつづけるためには、お金や物質的な富よりも、それを招き入れることができる心と、その心がもとになって表れる日々の行動こそが本質であると再認識させられます。

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“○○ごっこ” (あおばタイムズ 27)

 最近あまり聞かなくなった言葉の一つに「○○ごっこ」があります。「お医者さんごっこ」、「仮面ライダーごっこ」といった、マネごとをしながら遊ぶ遊びのことです。「鬼ごっこ」は一つの言葉としてすっかり定着していますが、追いかける方は鬼になったつもりで、追いかけられる方は本物の鬼から逃げるつもりで遊べば、必死になってそれだけ盛り上がることでしょう。
 ところで「プロレス」を知らない子供さんが増えていると聞いて驚かされます。私達が子供の頃は夜8時のゴールデンタイムに放映されていましたから、それを見て多くの子供が「プロレスごっこ」をしたものですが、ここ数年はK-1や総合格闘技に押されて人気がなくなってしまいました。「真剣勝負の格闘技を見る目が育ったからプロレスの人気がなくなった」という見方もありますが、それだけが理由ではない気もします。
 “ごっこ遊び”の本質は、本物になりきってやることと、全くの本気ではなく手加減をすることだと思います。つい調子に乗って技をかけた友達が「痛ぇ!」…「ごめん、ごめん」。なんていう経験をしながら、どれぐらいの力加減でやり合えば大丈夫なのか、人間関係の上でどの程度の距離感を保てばいいのか、といったことを体感しながら覚えていくものだと思います。これは、合気道や柔道といった武道にも通じる精神なのではないでしょうか。
  “ごっこ遊び”は、「身をもって」「相手の身になる」ことを覚えながら成長して行くのに、とても優れた遊び方ではないかと思います。

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“おかげさまで一周年” (あおばタイムズ 24)

 有馬潤一カウンセリングルームがオープンしてから、十月で一周年を迎えることができました。
 そもそも心療内科医として病院やクリニックでの診察をさせていただく中で、もっとじっくり腰を据えて皆さんのお話を伺いたいとのおもいからスタートしたカウンセリングルームでしたが、一年を経て、開業して本当に良かったと確信できるまでになりました。カウンセリングを受けていただく方のお顔が少しずつ和らぎ、お元気になって行く姿を目の当たりにすることこそ、カウンセリングをさせていただく私の大きなエネルギーになっています。
 昨年十一月から連載を始めさせていただいた、あおばタイムズ青葉区版『わが街のホームドクター』のコーナーもおかげさまで一周年を迎えます。オープン直後に連載を始めさせていただくことができたのは幸運であり、今でも初めてカウンセリングにみえる方の半数近くは「あおばタイムズを読んで」という方々なのです。読者の皆さんの声は月二回の原稿を書くうえで何よりの励みとなっており、これからも読んでくださる方の心が少しでもほぐれるような、そしていつも何かを感じていただけるような内容にして行きたいと思っています。(これまでのバックナンバーはホームページ上に掲載しておりますので、ご興味のある方はご覧になってみて下さい。)
 今年の五月には長男が生まれ、初めて子供をもつことで私のカウンセリングの幅も少しは拡がってきたのではないかと実感しています。これからも日々の生活の中で経験したこと、感じたこと、考えたことのすべてをカウンセリングの中に活かして行きたいと思っています。

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“素直な気持ちで” (あおばタイムズ 16)

 元大関貴ノ花の二子山親方が五十五歳の若さで亡くなりました。私が小学校の頃は輪島・北の湖両横綱による優勝争いが多く、そこに貴ノ花関の必死であきらめない相撲や初の外国人関取であった高見山関の人気が彩りを添えていた時代ですので、一抹の寂しさを感じさせる訃報でした。
 親方の死後、マスコミと私たちの関心はもっぱら二人の息子である勝さんと光司さんの兄弟仲に向けられています。それにしても、今思うとどうしてあれほどの若貴人気というものがあったのでしょうか?おそらく当時、それぞれが個人としての努力を惜しまず、それでいて互いを認め合っているという姿に感動させられたのだと思います。あの頃の二人を思い出しますと、土俵の上では厳しい顔をしていても、土俵を離れ兄弟として私たちの前に並んだ時には何とも言えない“微笑ましさ”を感じさせてくれたものです。たとえ言葉は交わさなくても、二人の間に何か思いやりのような気持ちが行き交うのを、私たちが心のどこかで感じとっていたからではないでしょうか。
 私たちは大人になるにつれて、様々な主義・主張を身に付けるようになります。自分では“これが正しい”と思っていても、人間のあり方にたった一つの正解があるわけではありません。それなのに別の考え方をする人のことを許せなくなってしまうと、時には争いにまで発展していかねません。そしてその最たるものが戦争なのです。
自らの主義・主張はひとまず置いて、子供の頃のような素直な気持ちで他の人と接してみる…そんな態度の大切さを教えられるような気がします。

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“神の手” (あおばタイムズ 13)

 わが家にテレビの取材が来ました!…といっても主人公は私ではなく、バースハーモニー助産院の齊藤純子さん。副主人公(?)は、まもなく出産を迎える私の妻。五月十八日(水)午後10時48分からテレビ東京で放映される『輝きレディ』という番組で助産師の齊藤さんが取り上げられることになり、妻の出産直前の自宅健診にスタッフの皆さんが取材にみえたのです。その際、夫婦ともに医者である妻と私がどうして病院ではなく自宅での出産を選んだのか?と訊ねられたのですが、齊藤さんの仕事に対する真摯な姿勢とお人柄が大きな理由だと思います。
 よく“安全神話”という言葉を耳にしますが、例えば「病院に任せておけば大丈夫」というのもその一つでしょう。確かに安心して任せられるシステムや設備があるのはとてもありがたいことです。しかし最近起きてしまった大きな鉄道事故や多くの医療ミスを見ていて思うのは、いくら時間をかけ苦労して立派なシステムを作り上げても、それを維持してゆく人間の意識が低ければたちまち破綻してしまう可能性があるということです。“神話”を陰で支えているのは、あくまで個々の意識なのです。
 私の母校には『神の手』という彫像があります。一人の人間が神の掌の上に立って自らの運命を神に委ねてはいるが、なお光を求めて空を仰ぎ、希望を捨ててはいない…そんな姿です。一人であろうと、組織の中にいようと、そのような姿勢で希望を胸に生きられたら尊いことだと思います。

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“育ててくれる時間” (あおばタイムズ 12)

 四月です。進学、就職、転職、引っ越し等、多くの方にとって転機となる季節だと思います。私自身、あまり環境の変化に順応するのが得意な方だとは思っていないのですが、春から夏にかけての時期は例年カウンセリングや心療内科を訪れる方も多くなります。
 この頃は就職や進学をする際の選択肢は増えているようです。「この仕事がうまく行かなかったら田舎へ帰るしかない!」といった状況は少なくなり、「このバイトがイマイチだったら他でもあたってみるか…」といったノリも増えて来ているように思います。このような変化は、いくつかの進路の中から選択できるという環境の面では恵まれていることなのかもしれません。しかし、選択する側の意識と覚悟には影を落としているのではないでしょうか。“選択し直せる”ことが、“どこへ行っても長続きしない”原因の一つになっているようにも思えます。
 東京でレストラン「コート・ドール」を開いている斉須政雄さん自らの経験を綴った『調理場という戦場』という素晴らしい本があります。“二三歳でフランスに渡った次の日の朝七時から四年半は、いつ寝ていつ起きていたのかわからないぐらいに忙しかった。~けれど四年経った頃には四肢にチカラがみなぎり、芯から強くなっていくような実感が出てきた”と書かれています。俗に「石の上にも三年」と言いますが、半年から数年後の自分がどうなっているかを楽しみにする…そんな客観的な目を持ちながら一つの事を続けることも大切だと思います。

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“スローライフのすすめ” (あおばタイムズ 9)

 私が楽しみにしているテレビ番組に「人生の楽園」と「ポカポカ地球家族」があります。日本や海外で自分のやりたいことを模索しながら生活している人とその家族の姿を伝えてくれる番組で、見ているとこちらまで暖かい気持ちにさせられます。
 また最近は「クウネル」や「天然生活」といった雑誌が若い女性を中心に読まれているようで、そこにはちょっと懐かしいような、素朴な生活の様子が取りあげられています。カッコイイこととか、見た目のスマートさではなく、より“人間らしく生きる”ことを求める人が増えてきているようです。
 私の妻も医者なのですが、初めての出産を「自宅で迎えたい」と言ってくれました。最初は私自身考えもしなかったのですが、初めての子供を授かる大切な時間をリラックスできる自宅で一緒に迎えることができるというのは、大きな喜びです。同じように自宅出産を考えているご夫婦が多くいらっしゃることも、励みになりました。そして出産は怖いものではなく、幸せに満ちた瞬間だということを教えてくれた信頼できる助産師さんとの出会いを通じて、私たち夫婦ももっと自分らしい生き方について考えるようになりました。
 私たちの人生には、生まれてきた時代や取り巻く状況によって様々な制約があるものです。しかしこんなふうに自分なりの生き方を模索している方々の姿をみると、こちらまで元気をもらえるような気がします。

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エンニオ・モリコーネを聴きに行って~のココロ

 エンニオ・モリコーネのコンサートを見に行きました。
 土曜日の夕方、東京国際フォーラム。
 「ニュー・シネマ・パラダイス」や「ミッション」といった映画の音楽が好きだったのです。

 …どなたか、ほかに見に行った方はいらっしゃいますか?
 是非、その感想を聴かせてください!

 私はといえば、『う~ん』といった感じ。

 フル・オーケストラでヴァイオリンを中心にメロディーラインを聴かせるニュー・シネマ・パラダイスなどのゆったりとした曲、これはもう素晴らしかった!
 しかし、私があまり古い映画を観ていないために知らない楽曲が多かったせいでしょうか?同じリズムをくり返す単調で神経を刺激するような曲が多かったのには、正直閉口してしまいました。
 “これが、あのメロディアスな曲で知られるエンニオ・モリコーネのコンサート!?”…といった印象。
 もっとも、昔のテレビや映画の曲は今とちがって、曲全体の流れをl大事にするというよりは、短いフレーズを効果的に聴く人に印象付けたい-というねらいが強かったのでしょうから、仕方がないのかもしれませんが。
 本編で演奏されたのと同じ曲が3曲もアンコールで、開演から3時間半近くがたった頃には、申しわけないのですがもうへとへとに疲れきってしまいました。

 75歳になる巨匠エンニオ・モリコーネの、本当に昔からのファンの方にとっては、それこそ一生に一度といってもいいぐらいの貴重なコンサートだったと思います。
 でも私には、残念ながらその素晴らしさは体感できなかった。

 最後に、東京国際フォーラムの大ホールは会場全体からのスタンディング・オベーションに包まれたのですが、私個人的には、やはり『う~ん』、と唸るしかなかったのでした。

 「これも、エンニオ・モリコーネという“名前”のなせるワザなんだろうね。」
 そう、妻と話していました。

 もしこのウェブログを読まれた方で土・日にエンニオ・モリコーネのコンサートへ行かれた方がいらっしゃったら、ぜひご自分の印象を聴かせていただければ、と思います。

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職業(シゴト)について考える。

 ところで、自分の職業について考えました。
 ワタクシ、今のところ具体的な職業は“謎”、ということにしておきますが、
 ともかく「人に対して何かをやってあげる」的な仕事を生業としております。

 …で、最近、どうもそのことで自分がストレスを感じているのでは?
 と、思い始めました。
 (今までは、そうでもなかったんですけどね。むしろ、ぜんぜん平気なつもりでおりました。)

 たとえば特にホテルのコンシェルジュの方なんて、「お客様のためなら何でもとことんやってさしあげる」(!)というのが仕事でかなりのストレスではないかと思われるのですが、人によっては「お客様の喜ぶ顔を見たら、苦労した疲れが吹き飛んでしまうんです!」なんてェ話をよく聞くわけです。
 一面、それは真理だと思う。

 自分の場合、『その時々で相手に合わせて何かをやってあげる』-
 のよりは、
 『自分がそれをやりたい時に、そのことに専心する』-
 方が向いているのかなぁ?なんて、考えてしまいます。
 (たとえばこうやってココログの文章を書いているのは、後者なんだよね。)

 でも、いままでずっとやってきていることというのは、ある時それに飽きてきたり、あるいは疑問を感じ始めたりするものなのかも知れないから、まだ何ともいえないけれどね…。

 それにしても、いわゆる“サービス業”と、それからもう一方で“専念する仕事”とでも言うのかな。
 それぞれに向いている人というのはあると思うんだ。
 各種の職業は、その両方がいろんなあんばいで混ざり合ったものなのかもしれないけれど、
 本質的には二つのうちどちらかに分けられるような気がする。

 そうすると、そのどちらに向いているかというのはけっこう本質的なパーソナリティーの問題なのではないでしょうか。


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“○○のココロ”…ことはじめ

 最初は『パラダイム・シフト』というタイトルで書こうと思ったのですが、なんだかホントに書きたいものとはちがう気がしてきて、やめにしました。

 心の領域に携わろうとすると、本屋さんでいうところの『心理』のコーナーみたいなところに関心が行きます。
 私もだいぶ読みました。…ユングの自伝や、彼が亡くなる前に出した「人間と象徴」なんて、今でも心に残っています。

 それはともかく、私達がカテゴリーのひとつとして『心』とか『心理』と言う名前で呼んだとき、じつは“こころ”的なものよりはむしろ“意識”のことを扱う場合が多いように思い始めました。
 “それはちと、ちがうんでないかい?”~そう、思いました。

 それで、“ココログのこころ”というタイトルに変えてしまったのです。
 (メールアドレスも新調!いたしました。関心のある方は、どうぞご一報下さい。)

 なんだか私たちが感じるところの社会に対する行きづまり(=息詰まり)感というのは、究極のところ、“こころ”をないがしろにするところからきているにちがいない、と感じています。

 ここでは、そんな問題を扱って行きたいと思います。

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パラダイム・シフトとは…

 別に、むずかしいことを言おうとしているわけではないんです。

 20世紀の日本社会において全盛だった『大量生産・大量消費』、『株式経済』、『マスメディア』、『集学的教育』、…エトセトラ、エトセトラ。
 こういったものが、そろそろ限界に来ていると誰もが感じている今日このごろ。
 みなさんも、もっと現状に合った新しい“パラダイム”を望んでおられるのだと思います。

 たまたま、私が大学時代に講義で読んでいたトーマス・クーンの『科学革命の構造』(中山茂・訳,みすず書房)にあった、“パラダイム・シフト”という言葉を思い出しました。

 …科学は真理を明らかにするものではない。それぞれの時代に何を問題にし、どのように答えれば「正しい」とされるのかという枠組み(これをパラダイムという)がある。科学的営為はパラダイムの中での「パズル解き」である。そして科学が既存のパラダイムで説明できないような限界に達すると、枠組み自体の変化すなわち科学革命が起こる。

 21世紀初頭、2004年。
 今まさに、意識の“パラダイム・シフト”が起きようとしている時ではないでしょうか?

 これから、けっして日常からかけはなれた世界の物語ではなく、
 身近な日常に根差した“パラダイム・シフト”のお話をつづってゆきたいと思います。…

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