“子供の教育問題”

 カウンセリングを続けていて分かってきたことがあります。それは、最近話題に上ることの多い“教育”問題について「これなら大丈夫」と言う言葉はあまり信用しない方が良いかもしれない―ということです。それほどに教育の問題はどこまでも奥が深く、一人一人の人間の存在意義と密接に関係しているように感じられます。
 例えばある家庭の中に学校や仕事へ行かない子供がいる場合、これは単純に「子供の問題」として片付けられない課題です。私を含め大多数の子供の頃というのは、基本的に自分が目にしてきた親のやり方の真似をするしかありません。他の生き方をしようにも、自分の親以外の生き方のイメージというものを持ち合わせていないのです。ですからたとえ表現の仕方はちがっていたとしても、例えばご自分のお子さんが学校へ行かないとしたら、それはご自分の中にある課題が別のかたちで子供さんの姿を通じて表現されたと考えてよいでしょう。
 子供さんを幸せにしたいと思う親御さんはしばしば、「たとえ自分を犠牲にしてでもいいから子供を幸せにしたい」と思われるようです。しかし多くの場合、それはなかなか難しいことのようです。逆に親御さん自身が生きることに幸せを感じている時、その子供さんも生き生きとしている姿を目にすることができます。ですから、もしあなたのご家族の中で幸せそうにみえない方がいる時には、まずはご自分が今幸せかどうかを検証してみることが先決なのかもしれません。

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“覚悟”

 カウンセリングというと、何か特別のことをするのではないかと想像される方もいらっしゃるのではないでしょうか。また例えば教育の現場で優れた先生がいるという話になると、やはり何か特別な方法論があるのではないかと考えてしまいがちです。しかし実際に成果を上げているのは、そのような“特別のやり方”ではないように思います。
 数年前、テレビ番組でダイエットにココアが良いという話になり、翌日スーパーでココアが売り切れてしまうという事件?が起きました。しかし今もココアが売り切れ続けているという話は聞きません。私自身かつて、あまり知られていない効果的な治療法があるのではないかと代替療法について色々と勉強した時期がありました。しかしどの治療法も自分自身には何かピンとくるものがなく、結局カウンセリングでお話を伺うことが自分の一番やりたいことだと納得するに至りました。以前、他にも何か方法があるのでは?…と迷いながらカウンセリングをしていた時期と、「今、自分のなすべきことはカウンセリングだ」と思えるようになってからでは、感じられる手応えが全くちがいます。
 先日福岡で起きた中学生の自殺から教育の話題がのぼった時、旧友がこんなことを書いていました。「人格を磨くには、何か一つのことをとことんやりぬくことだと思います。そうすると自信もつくし品格も生まれるでしょう。」―今、家庭や学校・社会の様々な場所で求められているのは、方法論よりむしろ『覚悟』なのではないでしょうか。

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“I am OK, you are OK.” (あおばタイムズ 48)

 新庄剛志選手が今季限りで引退することを発表していましたが、その北海道日本ハムファイターズが二十五年ぶりにパ・リーグを制覇しました。子供の頃から王監督のファンで九州出身の私はソフトバンクホークスを応援していたのですが、新庄選手の顔を思い浮かべると、「これでいいのだ」と不思議に納得できてしまいます。
 派手なパフォーマンスが注目されることの多い新庄選手ですが、他の選手が同じことをやってもこれだけの支持を集めることはできなかったでしょう。新庄選手の魅力は、いつものあの白い歯の見える屈託のない笑顔に表れています。それは「みんなをもっと楽しませたい。自分も心の底から楽しみたい!」と言っているかのようです。
 私達はよく「家族を幸せにするためには自分が我慢しなければいけない」といった考え方をしてしまいます。まるで自分と周りの人間がシーソーの両端に乗っていて、どちらかが下がらないともう一方は上がれない…みたいに。けれども、両方一緒に上がる方法はないものでしょうか?―それを実践しているのが、新庄剛志という人のように思えます。若手選手に一緒にゴレンジャーのお面を被るパフォーマンスをさせ、その選手は肝心の野球でも活躍するようになりました。新庄選手の「自分も楽しむ。みんなも楽しもうぜ!」という意識が、チームの他の選手達に、そしてファン全体へと波及したかのようです。
 そんな新庄選手が引退を決意したのは、自分がどこまでやれるかをよく知っていたからだと言います。野球生活を全うした新庄さんが、これから何をやって行くのかに注目したいと思います。

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WBCのココロ~それぞれの選択~

 世界16カ国の選抜チームから野球の世界一を決める第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)がアメリカで開催され、春分の日に日本が優勝を決めました。アジアでのライバル・韓国チームに1点差で2連敗するなど準決勝への進出がほぼ絶望視されながらの大逆転劇という私好みの展開で、しかも小学5年生だった時にホームランの世界記録を更新した王監督の率いるチームでしたから、久々に一生懸命になって応援していました。
 昨年末にはニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手が日本チームに参加するのかしないのか-ということで物議を醸しました。結局は参加せず、それでもさほど非難されなかったのは松井選手の人徳があったと思うのですが、今回は松井選手にとってもイチロー選手にとっても、大きな選択だったと思います。
 「日本野球のレベルの高さを世界に知らしめたい」と躊躇なく参加を決めたイチロー選手。「大リーグでワールドチャンピオンになるのを唯一の目標にプレーしている」と大リーグでの試合に専念する構えを見せた松井選手。どちらも立派だと思います。この2人とイメージ的にはかなり異なりますが、いつも「ファンに喜んでもらえること」を第一に行動している新庄選手もまた、プロ意識の高い選手です。こういった超一流の選手達を見ていますと、一人一人の目指す方向性は違っても、それぞれが確固たる信念を持って自分のなすべきことを選択しているのが分かります。
 現在のような情報化社会では「自分は何をやったらいいのだろう?」と迷ってしまうこともしばしばです。しかし、いつも自問自答を繰り返しながら自らの方向性を見定める努力を続けている人こそ、岐路に立った時に正しい判断を下せるのだと思います。

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2006年を迎えようとする日本人のココロ

 それぞれの時代や地域を生きる人間は、『共通意識』とでも呼ぶべきものを持っています。
 それはふだんあまり意識されることがないのですが、ある一つの時代・地域を生きる人間の多くに共通している、物事に対する一定の理解の仕方とでも言いましょうか…。
例えば、今この2005年~2006年を生きている日本人の多くが持っている「共通意識」と、かつて1985年ごろの時代を生きていた日本人の「共通意識」とを比べますと、その中身は私たちが気づかないうちに大きく変化してきているように思います。
 今回はそのような観点から、2005年ときたるべき2006年について考えてみようと思います。

さて2005年は私にとって、「日本人がある程度の落ち着きをとり戻した年」のように感じられます。
 日本の社会では、前年にあたる2004年ごろからライブドアの堀江社長,楽天の三木谷社長,村上ファンドの村上氏といった、株の売買によって比較的短い期間で大きな利益を上げている複数の人物が注目されてきました。ところが2005年に入り、村上氏による阪神電鉄,三木谷氏によるTBSのそれぞれ買収への動きは、いずれも多くの国民の賛同を得ることがありませんでした。
 この現象を目の当たりにすることで、私は日本人の意識の中には『長年の経験に基づいて積み重ねてきた経験や実績は、革新的なアイディアや一時的な思いつきよりも尊重すべきものだ』という信念のようなものが、今でも脈々と息づいているのを感じたのです。
 以前はプロ野球界をめぐる様々な動きのなかで、多くの国民からあたかも悪役のように見られていた感のある巨人の渡辺恒雄会長の発言が、ここにきて村上ファンドの村上氏よりも衆目の支持を集めつつあるという現象も、その一つの象徴と言えるのではないでしょうか。

 今の時点から20世紀を振り返りますと、少なくとも現在よりは、“目に見えるものより目に見えないもの”…つまりは表だって現れる現象だけではなく、その奥にある信念や思想のようなものが、もっと大事にされていた時代だったように感じます。
 例えば、しばしば言葉の上で『政治・経済』と並び称されることの多い「政治」と「経済」ですが、かつては信念や思想が反映されることの多い「政治」の方が、どちらかというと「経済」のジャンルよりも格が上であるかのような共通意識を、国民全体が持っていたような気がします。
ところが、それがいつしか(バブル経済の頃からでしょうか)「経済」が「政治」まで牛耳ってしまったかのような、まるで経済やお金が実質的に社会の中心を占めているかのような共通意識を持った社会へと変貌してしまったようにも感じられるのです。

 思えば私が子供の頃(1970年ごろ)には、たとえば競馬やパチンコといった賭け事は一部の限られた人々の娯楽と考えられていたような印象があります。それらは時と場合によってはある種の影を帯びながら話題にのぼることが多かったように記憶していますし、子供の前では話題にすることを控えられたりもしたものでした。それがいつしか、国民の多くが当たり前のようにその種の娯楽に興じるようになり、それらはテレビや新聞・雑誌でも日常的に大きく扱われるようになって行ったのです。
 聞くところでは現在、日本のパチンコ産業の総売り上げは自動車産業のそれを上回るというのですから、私自身も驚かされてしまいました。

 ここ20年ほどでしょうか、そのような変化に対して何の疑問も感じない場合が多かったように思いますが、今少しずつその流れが変わりつつあるように感じます。
ところで私は株の売買により収益を上げることと、賭け事で儲けようとすることには何らかの共通点があるのではないかと思っています。それは一言で言いますと、“育てる”ことをしないという点です。
 「いや、お金が育つのだ」と反論する方もいらっしゃるでしょうが、正確に言うとお金は“育つ”のではなく「増える」のです。“育つ”というのは、そもそもは“いのちあるものが成長する過程”を表す言葉だと思います。「(生命をもたない)お金が育つ」という表現には、現代を生きる私達の心の中の、本来の意味を曲げて平然と使うようになってしまった共通意識がありのまま反映されている気がします。
(もちろん株を扱う方々の中には、特定の企業やそこにいる人々を「育てる」目的で投資されている方もいらっしゃる場合はあるでしょう。いずれにしても、動機が一番のポイントだと思います。)

 2005年、日本人の多くが株式の大量取得による企業買収に抵抗感を持った背景には、心の中に「私達がこれまでやってきた経済主導の生き方は、どこかでまちがっていたのではないだろうか?」という共通意識があったのではないかと思います。
 2005年の衆議院選挙が行われた際、それまで自民党に所属していた議員の一部が郵政民営化に反対していわゆる「反小泉」と呼ばれ、その後自民党から除名などの処分を受けたことに対してあまり国民から反発がなかったことも、個々の議員に対する反対の意思というよりはむしろ、どこかで「これまで自分達がやってきたまちがいに対して、何とかして終止符を打とう」という共通意識が働いていたように思えるのです。

 2,3年前には今より景気も悪く、どこまで続くか先の見えない不況と言われ、犯罪などの話題もあって子供たちの未来にも明るさが見えない―といった空気で日本中が覆われていましたが、今ようやく私たちは、社会で起きつつある様々な現象を目の当たりにすることによって我が身を振り返り、新たに出直そうと決心しつつある段階なのではないでしょうか。

 ここ十年ほど、いわゆるマニュアルやハウツー本といった、あまり深い理解がなくても答えが分かってしまう(ような気がする?)文化がもてはやされてきたように思うのですが、このような流れは、ある意味“カウンセリング”のあり方とは対極にあるものでした。
 ここに来て、『手間と時間はかかるけれども、確実に変化をしながら少しずつ育って行く』ことの大切さが、改めて見直されてきているように感じます。

そういった意味で2006年は、日本における“カウンセリング元年”とでも言うべき新しい流れが起こってくる可能性を持った、なかなか楽しみな一年だと思っているのです。


(※ この文章は、カウンセリング検索サイト『こころ相談.com』(http://www.kokoro-sodan.com/)の年末年始特別コラム「心理カウンセラーから見た2005年と来年について」の一つとして掲載されました。)

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G1・藤田にガッカリ!

みなさんはプロレスを見ますか?
ちなみに『私、プロレスの味方です』。

15回目を迎える新日本プロレスの真夏の祭典“G1クライマックス”だったが、戦前の前評判どおり藤田和之がリーグ戦Bブロックを全勝で勝ち上がったものの、最後の決勝では蝶野正洋に敗れてしまった。
プロレス好きの正直な感想としては、試合そのものがスイングしていないカードが多く、また蝶野のG1・5度目の優勝というのも、流れ的には先月の橋本真也の死から今後へとつながるものではあるにせよ、如何せん中途半端という感じを受けざるをえなかった。

現在の「プロレス」に関しては、NOAHが一番。これはもう、現時点ではどうしようもない。アントニオ猪木を崇拝するほどの大・猪木信者だった私でさえ、これは認めざるをえない。三沢・小橋、そして秋山。皆、強くて巧いよ。これに対抗できるのは、新日本では永田裕志ぐらいか。プロレスラーは強いだけでも、巧いだけでも“強いプロレスラー”とは言えない。でもまだ強いだけの方がマシかな?蝶野正洋のことは嫌いではないけれど、今回のG1で優勝した蝶野正洋の表情は決して嬉しそうではなかった。だって、彼は今の自分の状態を良く知っているから…。かと言って、藤田和之の試合にはプロレスラーに必要な“間”がない。ほとんどの相手とスイングできない。(それでも中西戦だけは、直線的な同士が真っ向からぶつかって面白かったと思う。)準決勝で当たった川田利明だって、ああ見えて実は「プロレスラー」だから、全然説得力のない終わり方になってしまった。今回、藤田のぶっちぎり優勝に期待していたわけだけれど、終わってみれば結局“プロレスが下手”というところだけがクローズアップされてしまった。少なくとも私の目には。

「過激なプロレス」と言われたアントニオ猪木だって、第1回IWGPのリーグ戦では2分や3分でカネックやエンリケ・ベラといったメキシコ勢を片付けていた。だから実際、今のG1は選手たちも大変だと思う。毎日のように一線級同士がぶつかれば、どこかで短時間でケリをつけるなりしなければ続かなくなるのは当然。クオリティの高い試合をやろうと思ったら、一方ではラクに消化できる日も必要になってくる。G1が新日の代名詞として人気を博すのはいいことだが、今回も真壁選手がアキレス腱を断裂して長期欠場を余儀なくされたように、もっと選手の立場や個々の試合のクオリティーを真剣に考えるべきだとも思う。毎日のように豪華カードが目白押しなのはいいが、それがすべて半月以内に消化されるようにして過ぎて行ってしまうのは、本当のプロレス・ファンにはもったいないことのように思える。本当は、G1なんて3ヶ月とか半年ぐらいかけてもいいぐらいにさえ思う。試合と試合の間隔を広げて、それこそNOAHのようにもっと一試合一試合を大切なカードとして十分練り上げてファンに提供できれば、ファンも新日本を見直すだろうし、選手に対するこれまでの評価も上がろうというものだ。もっと、フロントがファンと選手のことを考えて構造改革しなければならない時期に来ている。それができていないのが、NOAHとちがって既成勢力・保守としての(いわば自民党・守旧派のような)これまでの新日だと思うのだ。

たとえば蝶野正洋だって、試合間隔を空けてコンディションを十分に調整できる期間があれば、まだまだファンを唸らせるような試合ができると思う。本当のファンから言わせれば、なんで蝶野対永田、蝶野対天山、永田対天山が大試合としてマッチメークされないかということ。NOAHがあれだけ、三沢対小橋、三沢対秋山、小橋対秋山を年間最優秀ぐらいのビッグカードにできるかというと、これはすべて周到になされた準備の努力の差としか言いようがない。せっかく一線級のすばらしい試合を提供することができる二人の選手がいても、それをそれだけのカードとして提示できるフロントがいなければ、まさに宝の持ち腐れと言える。早い時期にカードを発表し、それに向かってなされる選手の努力。そしてその選手の姿勢を見ながらなされるフロントの努力。その相乗効果があってこそ、大舞台を踏んだ選手がますます実力をつけて行くというのが現在のNOAHの姿だろう。

藤田和之はPRIDEへ戻るべきだと思う。前ゴング編集長の金沢さんからも提案された藤田のG1参戦であり、私自身もそれに賛同してたいへん楽しみにしていたのだが、結果的にはプロレスでの限界が見えてしまった。やはり本人にすべてを懸けて臨む気持ちがなければ、それが見えてしまうのだ。藤田が自分自身の本意ではなく、しぶしぶ今回のG1に参戦したというのは見えていた。(当の藤田自身にも、もしかしたら何らかの迷いはあったかもしれないが…)橋本真也の合同葬で新日本とDSEの関係が改善したというのであれば、ぜひ藤田にはPRIDEに戻ってその強さを見せつけてほしい。もうここ何年かが勝負のはずである。本当の意味で猪木の『闘魂』を受け継ぐ藤田には、決してその選手生命を後悔してほしくないのだ。そしてPRIDE参戦の暁には、もう一度是非オーケストラ・ヴァージョンで「炎のファイター」を響かせてほしいと思う。そろそろ藤田和之には、猪木から受け継いだ“魂”をもって猪木本人と対峙すべき時期が来ているように思う。

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サトウ・タクマ(佐藤琢磨)のココロ

 みなさんは、佐藤琢磨さんを知っていますか?
 今は知らないかもしれないけれど、たぶん半年もすれば日本中の人がその名前を覚えてしまうでしょう…。

 世界に20人しかいないF-1パイロットの一人として、あのアイルトン・セナと同じホンダ・エンジンを駆って奮闘している佐藤琢磨選手は、大学時代は全日本学生選手権で優勝するなど自転車競技の選手でした。それが、10歳の時に鈴鹿サーキットで観戦したF-1日本グランプリでのセナの走りへの感動を忘れられず、年齢的にはギリギリ最後のチャンスだったが自ら大学を休学してレースの世界へ転向。その後、今でも実際にはその基盤はヨーロッパの文化圏に根差しているF-1を目指すため、敢えてイギリスのF3レースに参戦し優勝。今でも外国人プレスからのインタビューにはすべて流暢な英語で答えるという、たいへんな努力家なのです。

 つい先日、ここ4年連続でF-1の年間チャンピオンに輝いているフェラーリ、ミハエル・シューマッハーの地元ドイツで、今季F-1第7戦・ヨーロッパグランプリがおこなわれました。
 日曜日のレースでスタートする順番を決める土曜日の予選で、佐藤琢磨は日本初の2位。
 いつもは日曜の深夜に中継されるF-1はビデオにとっておいて後日に観戦する私ですが、今回ばかりは翌日の仕事のことは忘れ、夜遅くテレビの前に集中してスタンバイしました。

 レース終盤まで、1位のシューマッハにはやや水を空けられた佐藤琢磨でしたが、3位以内をキープ。私たちの目にも、初の表彰台はもはやまちがいないように思われました。
 そして、ピットストップで先を越されてしまったシューマッハーのチームメイト・2位バリチェロを、見ている私たちの方が驚いてしまうほどあっという間に追いつめ、追い抜こうとしたその瞬間!バリチェロと接触し、車にダメージを受けたのは琢磨の方でした。フロントノーズを破損し、再びピットイン。ノーズ交換にやや手間どったものの、レースに復帰。残り10週余りでどこまで追い上げられるか?と思ったその時、エンジンから突然白煙があがり、無念のリタイアとなってしまいました。
 テレビの解説者も、そして観ていた私も、「なぜ、琢磨はあのタイミングでバリチェロを抜き去ろうとしたのだろう。あれからもっと慎重に行けば、いくらでも安全に追い抜くチャンスはあったのに…。」と思ったものでした。

 ところが、優勝したミハエル・シューマッハーのレース後のインタビューを見て、考えが変わりました。
 “Takuma is quick.”
 シューマッハーの地元であるドイツで、そして全世界へと中継される公式インタビューの場で、『琢磨は速い』とはっきりと口にした世界チャンピオン。そこに私は、次世代のチャンピオン候補である琢磨に対する、現チャンピオンからの目に見えないエールを感じたのです。

 思えば、若いころのアイルトン・セナは、ただ“速い”ことだけを追求して走りつづけ、「もっとプロストのようにレース運びがうまくならなければ…」と、あちこちから苦言を呈されたものでした。
 シューマッハーだって昔は今よりずっと攻撃的で、最終戦で優勝争いをしていたジャック・ビルヌーブに自分の方から接触してゆき、全戦分のポイントを剥奪されたこともあった。
 あまりに果敢なために責められることさえあるが、それでチャンピオンになれる者と、そうでない者とのちがい。…
 シューマッハーには、それが分かっていたのではないでしょうか。

 だから、佐藤琢磨と同じBARホンダ・チームのジェンソン・バトンはこの第7戦を終えた段階で、琢磨のドライバーズ・ポイント8点に対して38点と大きく上回ってはいるけれど、シューマッハーにとっては脅威ではない。
 むしろシューマッハーは自分やセナと同じように、チャンピオンとしての資質とそのスピリットをもった“サトウ・タクマ”を、認めているのではないでしょうか。


 それにしてもジェンソン…お願いだから、琢磨のことを『タキューマ』と呼ぶのはやめにしてくれないかな。
聞いていると何だか恥ずかしいから、“タクマ”と同じ日本人としてお願いしておくよ。

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ボブ・サップのココロ

 前回の記事に関連して、今をときめく(ときめいて“いた”!?)ボブ・サップさんのことを書いてみたいと思います。

 とくに格闘技やプロレスのファンでない方のために簡単に解説しておきますと…

 今はすっかり有名になったボブ・サップですが、もともとはアメフトの選手。空手から発展したK-1の石井館長にスカウトされ、それまでK-1でチャンピオンクラスの実績のある選手を破るなどして急激に頭角をあらわしてきました。
 その後も、立ち技(空手、キックボクシング系)の「K-1」から、いわゆる“何でもあり”(レスリング、寝技や関節技も用OK)の「総合格闘技」(PRIDEなど)にも進出し、そこでも強豪と互角にわたりあって来たのです。

 みなさんもご存じのようにテレビのCMやバラエティー番組で大活躍し、「本業の格闘技の方がおろそかになる」と心配されながらも、人気があるがゆえに“K-1のエース”的な扱いを受けてきたサップでした。
 今年の4月には「プロレス」の世界ではチャンピオンベルトを巻くことにもなったのです。

 ところが、5月22日にK-1が初めて開催した総合格闘技のイベント-ROMANEXのメインイベント(=その日、一番最後に行われる最も注目度の高い試合)で、アントニオ猪木の弟子である藤田和之選手と戦って顔面にキックを受けて戦意を喪失したように完敗し、その後アメリカに帰国して行方不明で、6月5日に予定されていたプロレスでのタイトルマッチ(チャンピオン・サップの防衛戦)直前だというのに今も連絡がつかない、と言われています。

 テレビで見るボブ・サップは、たいへん頭の回転が速くてやさしい人、という印象です。
 そのサップが、いままでの試合ではまるでそれとは別人のように激しくファイトあふれる闘いをみせていました。
しかし…、です。
 先日の藤田戦の時のサップは見ていても気の毒なくらい。予想していなかったであろう攻撃を受けて相手に背中を向け、うずくまるように頭を抱えてマットに横になっているだけでした。

 本来、ボブ・サップ選手の性格というのは決して格闘技に向いているわけではないと思います。
 それが、200cm,170kgの恵まれた体とすさまじい筋力、それに本人の努力もあってここまでやってきました。
 しかし、試合になったらある意味自分が人間であることを忘れ、集中して一心不乱に相手を攻撃しなければならないという厳しい格闘技の世界であるにもかかわらず、最近のサップ選手は、どこか自分を冷めた目で見ているような、闘うにはあまりにも中途半端な精神状態でリングに向かっていたように見えたのです。

 6月5日の試合がどうなるか、私にも分かりません。
 でも私自身は、 ボブ・サップはもう充分にやった-と思うのです。

 これから先、自分を見つめなおしたボブ・サップさんが、本当に自分の気持ちから格闘技の世界で再起しようとするならば、それは素晴らしいことだと思います。しかし同時に、それは大変ないばらの道でもあるでしょう。
 それとはちがって、もし彼が今後も、周囲の人間や時代の要請から自分自身のほんとうの意思には反して、無理をおしてこれまでのような状況での生活をつづけるのであれば、それは何よりも本人にとって、不幸なことのように思えてなりません。

 こんな“ボブ・サップのこころ”のような事態が、私たちの身の回りにもたくさん起こっていて、それがそれぞれの人間の『たましいの閉塞感』、つまり、“心が八方ふさがりな状態”を作ってしまっているような気してならないのです。


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