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“カウンセリングで起きていること”

 「カウンセリングでは何をするのですか?」という質問にはあれこれお答えすることができますが、「カウンセリングを受けるとどうなるのですか?」という質問にお答えすることはなかなか困難です。それよりもむしろ私は、「カウンセリングで何が起こっているのか?」について、難しいのですが可能な限り言葉で表現してみたいと思います。
 私のカウンセリング歴は医師としての診療の中から始まったこともあって、以前は“良くなるためのアドバイス”をさせていただくことに重きを置いていました。ですから色々なお話を聴きながら、「こんな事をお話ししてあげたらいいかな?、あんなアドバイスをしたら役に立つだろうか?…」などと考えていました。しかし自分のカウンセリングルームを開いて医療関係以外のご相談も受けるようになると、それだけでは対応できなくなってきました。頭で考えたアドバイスだけでは、とても通用しないケースが増えてきたのです。
 最近はカウンセリングにみえる方の言葉をじっくりと聴いていると、自ずと感じるもの、出てくる言葉があるように思えてきました。以前は他人事のように思えていたご相談の内容が、まるで自分のことのように感じられることさえあります。カウンセリングは、自分と他人との境界線を曖昧にさせてくれるところがあります。
 私が思うに、人間というのは他人を扱うようにしか自分を扱えないし、また自分を扱うようにしか他人を扱えない―ということです。他人の言葉に耳を傾けることは、じつは自分の心の内にある小さなささやきに耳を傾けることでもあり、それは苦しさを伴う場合もありますが、ひいては自分の心を開放してくれる鍵になりうると思います。

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“子供の教育問題”

 カウンセリングを続けていて分かってきたことがあります。それは、最近話題に上ることの多い“教育”問題について「これなら大丈夫」と言う言葉はあまり信用しない方が良いかもしれない―ということです。それほどに教育の問題はどこまでも奥が深く、一人一人の人間の存在意義と密接に関係しているように感じられます。
 例えばある家庭の中に学校や仕事へ行かない子供がいる場合、これは単純に「子供の問題」として片付けられない課題です。私を含め大多数の子供の頃というのは、基本的に自分が目にしてきた親のやり方の真似をするしかありません。他の生き方をしようにも、自分の親以外の生き方のイメージというものを持ち合わせていないのです。ですからたとえ表現の仕方はちがっていたとしても、例えばご自分のお子さんが学校へ行かないとしたら、それはご自分の中にある課題が別のかたちで子供さんの姿を通じて表現されたと考えてよいでしょう。
 子供さんを幸せにしたいと思う親御さんはしばしば、「たとえ自分を犠牲にしてでもいいから子供を幸せにしたい」と思われるようです。しかし多くの場合、それはなかなか難しいことのようです。逆に親御さん自身が生きることに幸せを感じている時、その子供さんも生き生きとしている姿を目にすることができます。ですから、もしあなたのご家族の中で幸せそうにみえない方がいる時には、まずはご自分が今幸せかどうかを検証してみることが先決なのかもしれません。

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“勇気と歓喜” (あおばタイムズ 50)

 四年ほど前から続けてカウンセリングにみえている三十代の女性の方のネット上の日記です。「今日は朝から車椅子で自分の力だけで駅まで行ってみました。歩くと大体十八分くらいの所に駅があるのですが、坂道を登ったり降りたりで一時間ぐらいかかってしまいました。でも、駅までいけるという自信が少し出てきました。電動の車椅子をとも考えていたのですが、今のまま手動式でもいいかなと思いました。」―このあと数日は前腕部が筋肉痛になってしまったそうですが、彼女の勇気ある行動に心から拍手を送りたいと思います!
 芸術家の岡本太郎さんがスキーを始めたのは四十六歳の時でした。「見上げると、絶壁のような上級コースが白々と輝いている。ああ、あんな凄いところで滑ってみたいなあ。(中略)こんなところで滑ったら、猛烈な勢いですっころんで、首の骨でも折って死んでしまうんじゃないか。ウーム!迷った。しかし来た以上、やってやろう。死と対面することこそが、いのちを燃やす真のよろこびじゃないか。決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、ぼくの目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた。」…彼女のニュースを読んだ頃、なぜか十五年ほども前に読んだ岡本太郎さんの本に書いてある内容を思い出していました。~『ぼくは生きるからには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは決して生まれてこない。』

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“教育は共育” (あおばタイムズ 49)

 一度は教師を志したこともある私は、今でも「先生」というのは最も尊敬を受けるべき職業の一つだと思っています。私は今、カウンセリングを通じて教育の一端でも担うことができればと考えています。
 最近“教育”という言葉は、多くの場合「教え、育てる」という義務的な意味で用いられているように感じます。しかし“教育”の本質は、「教えられながら共に育んでゆく」ことではないかと実感しつつあります。
 昨年の春に父親となった私は、まるで第二の人生を生かされているような心持ちでいます。一歳半になる息子を見ながら感じるのは、これから親である私達が次々と色々な事を教えていかなければならないということよりも、彼の中には既に数えきれないほどの宝物が備えられていて、それが月日とともに少しずつ開花していっているという印象です。初めて体験する世界や人々との出会い―それに呼応して自然に多くの才能が花開いてゆく様を目のあたりにするのは、喜びと発見に溢れる日々です。「なるほど!教育というのは子から教えられ、自ずとあたたかいまなざしになり、それによって互いの関係が育まれていくことを言うんだなぁ…」
 植物を育てる時、「あっちへ伸びろ」、「こっちへ伸びろ」と指示する方はあまりいないと思います。ただ十分な日光ときれいな水、それに大きく根を張ることのできるやさしい土。そういった環境さえ整えてあげれば、すくすくと成長していって美しい花を咲かせることでしょう。

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“覚悟”

 カウンセリングというと、何か特別のことをするのではないかと想像される方もいらっしゃるのではないでしょうか。また例えば教育の現場で優れた先生がいるという話になると、やはり何か特別な方法論があるのではないかと考えてしまいがちです。しかし実際に成果を上げているのは、そのような“特別のやり方”ではないように思います。
 数年前、テレビ番組でダイエットにココアが良いという話になり、翌日スーパーでココアが売り切れてしまうという事件?が起きました。しかし今もココアが売り切れ続けているという話は聞きません。私自身かつて、あまり知られていない効果的な治療法があるのではないかと代替療法について色々と勉強した時期がありました。しかしどの治療法も自分自身には何かピンとくるものがなく、結局カウンセリングでお話を伺うことが自分の一番やりたいことだと納得するに至りました。以前、他にも何か方法があるのでは?…と迷いながらカウンセリングをしていた時期と、「今、自分のなすべきことはカウンセリングだ」と思えるようになってからでは、感じられる手応えが全くちがいます。
 先日福岡で起きた中学生の自殺から教育の話題がのぼった時、旧友がこんなことを書いていました。「人格を磨くには、何か一つのことをとことんやりぬくことだと思います。そうすると自信もつくし品格も生まれるでしょう。」―今、家庭や学校・社会の様々な場所で求められているのは、方法論よりむしろ『覚悟』なのではないでしょうか。

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