2006年を迎えようとする日本人のココロ
それぞれの時代や地域を生きる人間は、『共通意識』とでも呼ぶべきものを持っています。
それはふだんあまり意識されることがないのですが、ある一つの時代・地域を生きる人間の多くに共通している、物事に対する一定の理解の仕方とでも言いましょうか…。
例えば、今この2005年~2006年を生きている日本人の多くが持っている「共通意識」と、かつて1985年ごろの時代を生きていた日本人の「共通意識」とを比べますと、その中身は私たちが気づかないうちに大きく変化してきているように思います。
今回はそのような観点から、2005年ときたるべき2006年について考えてみようと思います。
さて2005年は私にとって、「日本人がある程度の落ち着きをとり戻した年」のように感じられます。
日本の社会では、前年にあたる2004年ごろからライブドアの堀江社長,楽天の三木谷社長,村上ファンドの村上氏といった、株の売買によって比較的短い期間で大きな利益を上げている複数の人物が注目されてきました。ところが2005年に入り、村上氏による阪神電鉄,三木谷氏によるTBSのそれぞれ買収への動きは、いずれも多くの国民の賛同を得ることがありませんでした。
この現象を目の当たりにすることで、私は日本人の意識の中には『長年の経験に基づいて積み重ねてきた経験や実績は、革新的なアイディアや一時的な思いつきよりも尊重すべきものだ』という信念のようなものが、今でも脈々と息づいているのを感じたのです。
以前はプロ野球界をめぐる様々な動きのなかで、多くの国民からあたかも悪役のように見られていた感のある巨人の渡辺恒雄会長の発言が、ここにきて村上ファンドの村上氏よりも衆目の支持を集めつつあるという現象も、その一つの象徴と言えるのではないでしょうか。
今の時点から20世紀を振り返りますと、少なくとも現在よりは、“目に見えるものより目に見えないもの”…つまりは表だって現れる現象だけではなく、その奥にある信念や思想のようなものが、もっと大事にされていた時代だったように感じます。
例えば、しばしば言葉の上で『政治・経済』と並び称されることの多い「政治」と「経済」ですが、かつては信念や思想が反映されることの多い「政治」の方が、どちらかというと「経済」のジャンルよりも格が上であるかのような共通意識を、国民全体が持っていたような気がします。
ところが、それがいつしか(バブル経済の頃からでしょうか)「経済」が「政治」まで牛耳ってしまったかのような、まるで経済やお金が実質的に社会の中心を占めているかのような共通意識を持った社会へと変貌してしまったようにも感じられるのです。
思えば私が子供の頃(1970年ごろ)には、たとえば競馬やパチンコといった賭け事は一部の限られた人々の娯楽と考えられていたような印象があります。それらは時と場合によってはある種の影を帯びながら話題にのぼることが多かったように記憶していますし、子供の前では話題にすることを控えられたりもしたものでした。それがいつしか、国民の多くが当たり前のようにその種の娯楽に興じるようになり、それらはテレビや新聞・雑誌でも日常的に大きく扱われるようになって行ったのです。
聞くところでは現在、日本のパチンコ産業の総売り上げは自動車産業のそれを上回るというのですから、私自身も驚かされてしまいました。
ここ20年ほどでしょうか、そのような変化に対して何の疑問も感じない場合が多かったように思いますが、今少しずつその流れが変わりつつあるように感じます。
ところで私は株の売買により収益を上げることと、賭け事で儲けようとすることには何らかの共通点があるのではないかと思っています。それは一言で言いますと、“育てる”ことをしないという点です。
「いや、お金が育つのだ」と反論する方もいらっしゃるでしょうが、正確に言うとお金は“育つ”のではなく「増える」のです。“育つ”というのは、そもそもは“いのちあるものが成長する過程”を表す言葉だと思います。「(生命をもたない)お金が育つ」という表現には、現代を生きる私達の心の中の、本来の意味を曲げて平然と使うようになってしまった共通意識がありのまま反映されている気がします。
(もちろん株を扱う方々の中には、特定の企業やそこにいる人々を「育てる」目的で投資されている方もいらっしゃる場合はあるでしょう。いずれにしても、動機が一番のポイントだと思います。)
2005年、日本人の多くが株式の大量取得による企業買収に抵抗感を持った背景には、心の中に「私達がこれまでやってきた経済主導の生き方は、どこかでまちがっていたのではないだろうか?」という共通意識があったのではないかと思います。
2005年の衆議院選挙が行われた際、それまで自民党に所属していた議員の一部が郵政民営化に反対していわゆる「反小泉」と呼ばれ、その後自民党から除名などの処分を受けたことに対してあまり国民から反発がなかったことも、個々の議員に対する反対の意思というよりはむしろ、どこかで「これまで自分達がやってきたまちがいに対して、何とかして終止符を打とう」という共通意識が働いていたように思えるのです。
2,3年前には今より景気も悪く、どこまで続くか先の見えない不況と言われ、犯罪などの話題もあって子供たちの未来にも明るさが見えない―といった空気で日本中が覆われていましたが、今ようやく私たちは、社会で起きつつある様々な現象を目の当たりにすることによって我が身を振り返り、新たに出直そうと決心しつつある段階なのではないでしょうか。
ここ十年ほど、いわゆるマニュアルやハウツー本といった、あまり深い理解がなくても答えが分かってしまう(ような気がする?)文化がもてはやされてきたように思うのですが、このような流れは、ある意味“カウンセリング”のあり方とは対極にあるものでした。
ここに来て、『手間と時間はかかるけれども、確実に変化をしながら少しずつ育って行く』ことの大切さが、改めて見直されてきているように感じます。
そういった意味で2006年は、日本における“カウンセリング元年”とでも言うべき新しい流れが起こってくる可能性を持った、なかなか楽しみな一年だと思っているのです。
(※ この文章は、カウンセリング検索サイト『こころ相談.com』(http://www.kokoro-sodan.com/)の年末年始特別コラム「心理カウンセラーから見た2005年と来年について」の一つとして掲載されました。)
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