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ボブ・サップのココロ

 前回の記事に関連して、今をときめく(ときめいて“いた”!?)ボブ・サップさんのことを書いてみたいと思います。

 とくに格闘技やプロレスのファンでない方のために簡単に解説しておきますと…

 今はすっかり有名になったボブ・サップですが、もともとはアメフトの選手。空手から発展したK-1の石井館長にスカウトされ、それまでK-1でチャンピオンクラスの実績のある選手を破るなどして急激に頭角をあらわしてきました。
 その後も、立ち技(空手、キックボクシング系)の「K-1」から、いわゆる“何でもあり”(レスリング、寝技や関節技も用OK)の「総合格闘技」(PRIDEなど)にも進出し、そこでも強豪と互角にわたりあって来たのです。

 みなさんもご存じのようにテレビのCMやバラエティー番組で大活躍し、「本業の格闘技の方がおろそかになる」と心配されながらも、人気があるがゆえに“K-1のエース”的な扱いを受けてきたサップでした。
 今年の4月には「プロレス」の世界ではチャンピオンベルトを巻くことにもなったのです。

 ところが、5月22日にK-1が初めて開催した総合格闘技のイベント-ROMANEXのメインイベント(=その日、一番最後に行われる最も注目度の高い試合)で、アントニオ猪木の弟子である藤田和之選手と戦って顔面にキックを受けて戦意を喪失したように完敗し、その後アメリカに帰国して行方不明で、6月5日に予定されていたプロレスでのタイトルマッチ(チャンピオン・サップの防衛戦)直前だというのに今も連絡がつかない、と言われています。

 テレビで見るボブ・サップは、たいへん頭の回転が速くてやさしい人、という印象です。
 そのサップが、いままでの試合ではまるでそれとは別人のように激しくファイトあふれる闘いをみせていました。
しかし…、です。
 先日の藤田戦の時のサップは見ていても気の毒なくらい。予想していなかったであろう攻撃を受けて相手に背中を向け、うずくまるように頭を抱えてマットに横になっているだけでした。

 本来、ボブ・サップ選手の性格というのは決して格闘技に向いているわけではないと思います。
 それが、200cm,170kgの恵まれた体とすさまじい筋力、それに本人の努力もあってここまでやってきました。
 しかし、試合になったらある意味自分が人間であることを忘れ、集中して一心不乱に相手を攻撃しなければならないという厳しい格闘技の世界であるにもかかわらず、最近のサップ選手は、どこか自分を冷めた目で見ているような、闘うにはあまりにも中途半端な精神状態でリングに向かっていたように見えたのです。

 6月5日の試合がどうなるか、私にも分かりません。
 でも私自身は、 ボブ・サップはもう充分にやった-と思うのです。

 これから先、自分を見つめなおしたボブ・サップさんが、本当に自分の気持ちから格闘技の世界で再起しようとするならば、それは素晴らしいことだと思います。しかし同時に、それは大変ないばらの道でもあるでしょう。
 それとはちがって、もし彼が今後も、周囲の人間や時代の要請から自分自身のほんとうの意思には反して、無理をおしてこれまでのような状況での生活をつづけるのであれば、それは何よりも本人にとって、不幸なことのように思えてなりません。

 こんな“ボブ・サップのこころ”のような事態が、私たちの身の回りにもたくさん起こっていて、それがそれぞれの人間の『たましいの閉塞感』、つまり、“心が八方ふさがりな状態”を作ってしまっているような気してならないのです。


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職業(シゴト)について考える。

 ところで、自分の職業について考えました。
 ワタクシ、今のところ具体的な職業は“謎”、ということにしておきますが、
 ともかく「人に対して何かをやってあげる」的な仕事を生業としております。

 …で、最近、どうもそのことで自分がストレスを感じているのでは?
 と、思い始めました。
 (今までは、そうでもなかったんですけどね。むしろ、ぜんぜん平気なつもりでおりました。)

 たとえば特にホテルのコンシェルジュの方なんて、「お客様のためなら何でもとことんやってさしあげる」(!)というのが仕事でかなりのストレスではないかと思われるのですが、人によっては「お客様の喜ぶ顔を見たら、苦労した疲れが吹き飛んでしまうんです!」なんてェ話をよく聞くわけです。
 一面、それは真理だと思う。

 自分の場合、『その時々で相手に合わせて何かをやってあげる』-
 のよりは、
 『自分がそれをやりたい時に、そのことに専心する』-
 方が向いているのかなぁ?なんて、考えてしまいます。
 (たとえばこうやってココログの文章を書いているのは、後者なんだよね。)

 でも、いままでずっとやってきていることというのは、ある時それに飽きてきたり、あるいは疑問を感じ始めたりするものなのかも知れないから、まだ何ともいえないけれどね…。

 それにしても、いわゆる“サービス業”と、それからもう一方で“専念する仕事”とでも言うのかな。
 それぞれに向いている人というのはあると思うんだ。
 各種の職業は、その両方がいろんなあんばいで混ざり合ったものなのかもしれないけれど、
 本質的には二つのうちどちらかに分けられるような気がする。

 そうすると、そのどちらに向いているかというのはけっこう本質的なパーソナリティーの問題なのではないでしょうか。


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“○○のココロ”…ことはじめ

 最初は『パラダイム・シフト』というタイトルで書こうと思ったのですが、なんだかホントに書きたいものとはちがう気がしてきて、やめにしました。

 心の領域に携わろうとすると、本屋さんでいうところの『心理』のコーナーみたいなところに関心が行きます。
 私もだいぶ読みました。…ユングの自伝や、彼が亡くなる前に出した「人間と象徴」なんて、今でも心に残っています。

 それはともかく、私達がカテゴリーのひとつとして『心』とか『心理』と言う名前で呼んだとき、じつは“こころ”的なものよりはむしろ“意識”のことを扱う場合が多いように思い始めました。
 “それはちと、ちがうんでないかい?”~そう、思いました。

 それで、“ココログのこころ”というタイトルに変えてしまったのです。
 (メールアドレスも新調!いたしました。関心のある方は、どうぞご一報下さい。)

 なんだか私たちが感じるところの社会に対する行きづまり(=息詰まり)感というのは、究極のところ、“こころ”をないがしろにするところからきているにちがいない、と感じています。

 ここでは、そんな問題を扱って行きたいと思います。

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パラダイム・シフトとは…

 別に、むずかしいことを言おうとしているわけではないんです。

 20世紀の日本社会において全盛だった『大量生産・大量消費』、『株式経済』、『マスメディア』、『集学的教育』、…エトセトラ、エトセトラ。
 こういったものが、そろそろ限界に来ていると誰もが感じている今日このごろ。
 みなさんも、もっと現状に合った新しい“パラダイム”を望んでおられるのだと思います。

 たまたま、私が大学時代に講義で読んでいたトーマス・クーンの『科学革命の構造』(中山茂・訳,みすず書房)にあった、“パラダイム・シフト”という言葉を思い出しました。

 …科学は真理を明らかにするものではない。それぞれの時代に何を問題にし、どのように答えれば「正しい」とされるのかという枠組み(これをパラダイムという)がある。科学的営為はパラダイムの中での「パズル解き」である。そして科学が既存のパラダイムで説明できないような限界に達すると、枠組み自体の変化すなわち科学革命が起こる。

 21世紀初頭、2004年。
 今まさに、意識の“パラダイム・シフト”が起きようとしている時ではないでしょうか?

 これから、けっして日常からかけはなれた世界の物語ではなく、
 身近な日常に根差した“パラダイム・シフト”のお話をつづってゆきたいと思います。…

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